二百年の物語


 文秀堂と銘銧堂、熊田家と髙橋家
 二つののれんと二つの家の二百年

 

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  1 江戸時代後期、筆製造創業期

 今から400年程前に豊臣家より伊達本家に伝えられた筆造りは、その50年ほど後に本家より留守家(水沢伊達家)へと伝えられました。水沢一万六千石(現在の岩手県奥州市水沢区)を治めていた伊達一門十一家のひとつ留守家は、家臣に筆造りの内職を奨励しました。

 江戸時代、留守家家臣熊田家は筆造りの内職をしていました。家伝により創業は水沢領内の陸奥国塩竃村虚空蔵小路にて文化14年(1817年)と伝わっています。家伝と東京商工リサーチ資料は一致しています。同時期に岩谷堂五千石(奥州市江刺区)を治めていた伊達一門十一家岩城家(岩谷堂伊達家)家臣も筆造りの内職をしていました。

 

  2 幕末、文秀堂・銘光堂黎明期

 文化年間、岩城家家臣髙橋長治郎は岩谷堂にて製筆をしていたようです。その時期が1817年より前か後かは資料にも口伝にもありません。髙橋家は長治郎から孫の宮三郎へ、宮三郎から甥の長吉へと引き継がれました。長吉は仙台玉光軒と銘華堂にて製筆の指導を受けています。

 その後、髙橋家は長吉の修行先二軒の屋号から [銘][光] の一字ずつ取り銘光堂を商号としました。一方熊田家は文秀堂を商号としました。

 帝国データバンク資料には、文秀堂の創業が嘉永6年(1853年)とあります。前述の文化14年という家伝と合致しません。熊田家が商号文秀堂を使い始めた年かもしれません。

 

3 明治維新から明治後期
 筆隆盛期から衰退始期~

 江戸末期から明治初期には、常之進の熊田文秀堂と長吉の髙橋銘光堂の他にも多くの筆製造業者、製造卸業者があり、水沢を中心とした地域で筆造りが盛んに行われていました。
 筆製造業者は水沢には55戸、岩谷堂には数戸あり、職人を使役し卸小売を行う問屋は10戸程でした。
 髙橋銘光堂は町屋敷の仲町74(現中町5)に移転し、その後職人4人を抱え工場を構えました。江戸時代、水沢と岩谷堂の筆は地元周辺と南部領を主な市場としていましたが、この頃になると水沢以北の本州と開発の進む北海道樺太まで営業範囲を拡大し全盛期となりました。
 明治期、熊田家の常之進と豊は水沢町会議員を務めていました。この時期、維新後開業した筆製造業者の淘汰が進んだ一方、幾人もの職人を使役する規模の業者が増えてきました。 製造卸も減少し始めた明治後期に、熊田文秀堂と髙橋銘光堂は実質的に統合したと思われます。大正に入り倍吉は、髙橋銘光堂を弟養吉に任せ、水沢に移り住み、文秀堂四代豊と共同で経営にあたりました。

4 大正期

~新たな柱への取組始まる~

 筆製造業者の数はさらに減少し、水沢町内では筆製造12戸、製造卸は文秀堂他1戸、岩谷堂には筆商が銘銧堂他1戸となりました。

 熊田家は経営から離れ、倍吉が文秀堂五代となりました。文秀堂は筆等の販売するかたわら、同じく地元の特産品であった鉄器も併せて販売しました。その頃は主に鉄瓶等の日用品と鉄砲と呼ばれた風呂の焚き口でした。

 

5 戦後、新たな主力へ移行始まる
~鉄器・漆器と事務機メンテナンス~

 第二次世界大戦前、民芸=民衆的工芸という造語とともに伝統的な工芸品が再評価されました。戦後、岩手県産工芸品は日用品贈答品や観光地の土産品としての需要が増えました。この頃秀衡塗の企画販売を行い、南部鉄器と並ぶ工芸品主力商品としました。

 鉄器や漆器等の主力工芸品に関しては、職人と連携し、企画段階から携わり自社ブランドで生産販売し、文秀堂の中心的商品と位置づけました。代表例として、文秀堂と岩手県工業試験場、正法寺、卓越技能士の四者による正法寺椀の復元が挙げられます。

 この頃、今迄主力であった筆や刷毛・硯・墨の需要はさらに少なくなり、文具事務用品と電卓へ、そして更にオフィス家具、事務機械販売メンテナンスへと変わりました。

 同じ地場産品として一緒に扱っていた筆と鉄器の販売が、事務機械事務用品の部門と工芸品の部門に、分かれて販売されるようになりました。同じ頃、土産食品の販売の子会社北日本商事を設立し麺、漬物、煎餅等の県産食品の販売を始めました。

 

6 平成期、現在

 そして現在、工芸品販売部門は、南部鉄器を主力とした工芸品の販売に加えて、関東東北地区内の工芸品販売先の観光施設を中心に  昭和35年文具店店頭家具寝具や食器厨房用品、風呂用ソープ等の業務用品を併せて販売しています。事務機部門は、OA情報機器の販売メンテナンスを主力に、事務用品や事務用業務用家具を扱っています。七代目がキヤノンに勤務していたのに続いて八代目がコニカミノルタに勤務し、メーカーとの連携がより強固になりました。

 小売店舗は工芸品贈答品の吉小路店クラフト館、文具事務用品の吉小路店文具館と観光物産品を中心としたZプラザ店の2店舗3部門があります。

 今では全く異なる取扱品である工芸品、事務機の二つの部門は、既述のように元々は地場産品という共通点があります。

 筆の実用事務用品としての役目は終わってしまいました。昭和期後半には筆需要の減少により、文秀堂ブランド筆の地元水沢での生産が終了しました。そして、平成初期に水沢筆の最後の職人が亡くなり、水沢と岩谷堂での筆造りの歴史が完全に終焉を迎えました。

 但し、広島県の筆職人と連携して委託生産することにより、最後の水沢筆である文秀堂印の筆を現在も販売しています。

 筆を祖としているのは事務機械事務用品部門です。しかし筆は実用的な事務用品文房具というより、書道の道具、伝統的な工芸品のひとつという色合いが強くなり、現在その販売は工芸品販売部門が行っています。

 

7 二百年間の試練

 創業195年である平成23年3月11日午後2時46分。この時からしばらくは試練の日々でした。東日本大震災とその津波により、主力販売先である三陸海岸の観光関連施設と福島で大きな影響が出ました。約50軒の得意先が津波で流されました。8軒で亡くなられた方がいました。全てのものが止まってしまいました。売上が直後数ヶ月は前年対比30%から80%減少しました。津波被害による破綻や長期休業も続出し売掛金回収もままなりませんでした。

 この二百年の間に、存亡の危機は何度かありました。家禄引換公債証書発行条例により筆のみで生計を立てなくてはならなくなった明治初期。筆業者の大半が廃業破綻した大正期。自宅と会社が火事で全焼した第二次世界大戦直後。バブル崩壊時期。そして東日本大震災。そのつど乗り越えてきました。
 筆の全盛期は残念ながら過ぎてしまいましたが、筆はこれからも日本で愛され使われ続けていくはずです。

 日本文化にしっかり根付いている筆、地元岩手製造という強みがある南部鉄器秀衡塗等の伝統工芸品、メンテナンス等の地元対応能力が求められる事務機械や事務用品。取扱品は創業以来少しずつ変化しつつも基本や根本は変わっていません。

 「地元のものは外で売れ、外のものを地元で売れ」という言葉が髙橋家に伝えられています。南部鉄器や秀衡塗等の地元工芸品を県外海外へ、県外海外で生産された情報機器事務用機器を地元で売ることで、今でもその言葉に応えています。

 

8 震災と平泉世界遺産

~次の百年へ、次の・・・~

 震災の後、事業継続が危ぶまれる時期が数ヶ月続きました。その中で継続できた理由のひとつは平泉の世界遺産登録でした。
 しかし、厳しい経営環境は現在も続いています。厳冬の後に春が来る「春風春水一時来」までもう少しと思っています。
 本年、皆様のご支援のもとにどうにか無事二百年を迎えられました。しかし季節は廻り冬になるように、また厳しい時期が来ると思われます。それを乗り越え永遠の繁昌「永昌」となれるよう、変化し継続していきたいと思っています。


次の世代に繋ぎ、次の百年へ

家紋入 銘入 鉄瓶

 

正法寺椀

 

昭和35年 文具店店頭

秀衡塗カタログ

南部鉄器カタログ

Canon

 KONICAMINOLTA

 

[ 参考文献 ]

水沢町史 1931年発刊

水沢市史 1985年発刊

江刺郡史 1925年発刊

江刺市史 1975年発刊

えさしの歴史 1985年発刊